修了生から嬉しい便りが届きました.
父の学校の学びから10年程。振り返れば人生の要所で確かな礎となり、指針となった学び、講師陣や奥様方の温かい言葉がけ、絶え間ない祈りの支援に改めて感謝を述べたい。
「ホームスクール」×「父の学校」= ストライクな生き方
私は山形県で数少ないホームスクールを始めて10年目となる。『彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。』(マラキ4:6)。ホームスクールで大切なのは学習面よりも信仰面であり、特に家庭の落ち着きであった。そしてそれは私の落ち着きにかかっていた。
私自身機能不全の家庭に育ち、もともと良いモデルが無い。しかし聖書を読むと「できない・持たない」者を神は用い、ご自身の栄光を表そうとされているのではないか。そう感じ、期待をもって歩んできた。
私の場合、自分を責める声が強く、とても辛い。自分の努力や成果はあまり評価できず、自分のなまけや失敗ばかり気になるのだ。書物や父の学校の教えに対しても、学んだのに全然活かされていないと責める声が頭に響く。あまり自分を責めすぎると、生きる希望が薄らいでくる。
「父が変われば家庭も変わる」という父の学校に惹かれ、これはやらなければならないことだと一念発起し、米沢1期を終了した。ピンときたこともあれば、まだ時が来ていないのか分からないこともあって、我力で頑張る自分もいた。
時折襲い掛かってくる「父」というプレッシャーの渦の中で、私のせいで家庭が混乱する。時には涙で終わる一日があり、時には絶望で結婚生活をやめようかと話になり・・・。しかし絶望の時こそ希望の主の業が働く!
喧嘩の最中になんと、子供たちが祈ってくれている!! 時には、ギターとピアノで賛美を奏で、私たちを信じて健気に忍耐してくれるのだ。その姿を見て私たちは我にかえり、悔い改めて謝罪する。(すると子供たちは喜んで許してくれるから、ただただ感謝。)
過去の縄目が確かに断ち切られている祝福の実り。これがクリスチャンホームの醍醐味と思う。試練が宝になり、夫婦のさらなる回復と共に、私たちの家庭が主の御翼で守られていることを思い起こさせてくれるのである!
父の学校で最後に修了生にかけてくださった言葉、「お父さん、死なないでください」。その当時は随分大げさだとしか感じなかったが、本当の学びに出会ったお父さん方が、その後の人生で自分を責めて負い詰まることをも父の学校は予見していたんだなあ、としみじみ思わされた。
また、父の学校開催中に、志願者及び講師陣の奥様方による祈りの支援についても、真面目な働きという程度の印象であったが、大切なことだとわかった。私の日々の苦しみの背後に何年間も続けて祈り、優しく声掛けをしてくれた家族、友人、知人の愛に気づいたとき、その「祈る」という神聖で尊い、力ある主の働きに畏怖を感じざるを得ないのである。
私は、「誰でもキリストの内にあるなら」を賛美した場面を思い出し、解放された喜びが湧き上がり、もう一度泣いた。『涙と共に種を蒔く人は喜びの歌と共に刈り入れる。』(詩編 126編)。これからは嬉し涙も増えていくだろう。
父の学校の学びから10年程。振り返れば人生の要所で確かな礎となり、指針となった学び、講師陣や奥様方の温かい言葉がけ、絶え間ない祈りの支援に改めて感謝を述べたい。
私自身が「高価で貴い」と教えてくれた神様と家族、聖書に感謝し、この未完成の器のままで主に用いられる喜びに歩んでいきたい。
山崎 啓一 (山形1期)